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代表 大野まゆみの想い

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第1節 指圧学校に入学

平成12年4月日本指圧専門学校入学。
昭和60年4月墨田区役所入庁し、図書館、区議会事務局、高齢者福祉課、障碍者福祉課を歴任したが、入庁16年目に専門学校に入学したのだ。

夜間授業であったため、17:15に業務終業後、素早く着替え、錦糸町駅から飯田橋駅に向かう。
飯田橋から坂道を登って15分、小石川に日本指圧学校がある。

授業を2コマ(1コマ90分)21:15には学校を出、上野駅から常磐線佐貫駅に帰る。
電車の中が勉強部屋。21:54上野発22:40佐貫駅着。
歩いて一人暮らしのマンションへ。帰宅は23:00。

お風呂に入り、翌朝は6:20の始発から2本目の電車に乗り込む。
座れるわけではなく、約1時間は満員電車。

車窓からは、朝靄の坂東太郎や筑波山を眺め、勉強にいそしむ。
3年生の時、小石川に引っ越して人間らしい生活を送れるかとおもいきや、定期試験・国家試験と勉強をこれほどした時期は一生で一番であった。
 

なぜ指圧学校にいったのか? よく質問される。
答えは「友達に勧められたから」。
そんな単純なことでこんな大それたことを決行してしまったのだ。(今から思えば)

区役所勤めは、小学校5年生からの、私の目標であった。
母が「将来は、区役所に勤めなさい」と言ったから。素直で従順な大野少女、目標達成のため、勉強して晴れて墨田区役所に入庁できたのだ。
最初は図書館。5年勤務し、定期異動。
「希望部署は人事にお任せ」と記入したから、誰も希望者などいない厳しい「区議会事務局」に辞令がくだった。

今から思えば、とても楽しい職場だった。定時で帰れることはなく、庶務係として、お茶くみ等に励んだ。
希望してもいけない職場であった。情報のるつぼであったし、失敗は許されない職場であるから。
ここでも、真面目で信頼の厚い大野職員は、頑張って職務を全うした。

その後、底辺の職場「福祉事務所」に移ることになる。「福祉事務所」の代表仕事が生活保護である。
幸い私は「高齢者福祉課」であったため、老人ホームに入居させる「高齢者ケースワーカー」となった。
役所の仕事は「ゆりかごから墓場まで」といわれる。ここで、戸籍から、納骨までかかわった。

26歳~30歳、18歳からの区役所務めもはや10年を越え、このままでいいのか?という天の声が聞こえ始める。
スキーやテニスを習い、そこで知り合った友人に恵まれ、海外旅行に度々行った。主に「海」。
グアム・サイパンは何度行っただろう。シュノーケルできるきれいな海を求め、沖縄座間味島や、ニューカレドニアにも行った。
友人と一緒に過ごす時間が多く、そこでたくさんのことを学んだ。

区役所で、愚痴を言っている先輩たちにうんざりしていた頃「大野さんは、こういう仕事が向いてるよ」という言葉が、私をうごかしたのだった。
 


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