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代表 大野まゆみの想い 2017年11月

第1章 経験

第1節 死について考えることから、始まる。

1.父の死

父が昨年(平成28年)亡くなった。生まれたら死ぬのだ。
一通りを知ると、人生観は変わる。物はすべてなくなるのだ。盛者必衰。
 
平家物語。
祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、 盛者必衰の理をあらはす。
奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。風の前の塵に同じ。
 
沢山のことを学んだ。
お金の整理をすること。自分の命の終わりを自分で決めること。悔いなく生きること。人の行動のこと。
亡くなると、もっと近くに感じるようになること。言い尽くせないこと。それでも人は生きていること。
 
「人はそれぞれ事情をかかえ、平然と生きている(伊集院静)」 …心に響く「現代の名言」ランキング 2013/1/13日経新聞


第2節 友人の死

8年前、友人が乳がんで亡くなった。沢山のことを学んだ。
友人の死後、私は健康診断を受け、子宮がんと判った。手術。父に立ち会ってもらう親不孝。母も姉も来なかった。大事な時に大事な時間を作ることの大切さ。本当に信用できる人と、いざというときに逃げる人。本当の姿。しかし、人間は自分でいっぱいなのだ。だから、時間をつくりたくてもつくれない。だから人のせいにしてはいけない。人はそういうものなのだから。だから、自分自身をしっかり健康に保つ。誰も助けられないから。
また、同時に乳がんの疑いもでてきた。いまだに爆弾をかかえている。しかし毎年検診をし、やっと信頼できる医師に出会うことができている。

 


第3節 死生観

限りある命。どうせ生きるなら楽しく生きよう、役に立つ人になろう、いつ死んでも悔いのないように生きようと思っている。

具体的には、今死んでも良いように「完了ぐせ」をつけている。洋服はたたんでおく。洗濯物はためないなど、何事も終わらせるようにしている。ただ、疲れすぎた時は、できないこともある。やるかやらないか、自分の決断に自信を持つことにしている。特に父の介護の時などは「これをやれば、自分の体がきつい。でも、やらなければ必ず後悔する。だから、体を壊さない位の、『ぎりぎりで生きる。』」と決めて行動した。不思議なことに、そこに回路は拓けることを実感した。

また、日野原重明氏のように「ミッション(使命)」を持って生きている人は病気をしない。さらに、108歳まで生きた天海和尚の教えや、貝原益軒の「養生訓」は素晴らしいと実践している。

天海

「気は長く、務めはかたく、色薄く、食細くして、心広かれ」
「長寿は粗食、正直、日湯、だらり、ときおり下風あそばされかし」

 
養生訓

人の身は父母を本(もと)とし、天地を初とす。天地父母のめぐみをうけて生まれ、また養はれたるわが身なれば、わが私の物にあらず。天地のみたまもの(御賜物)、父母の残せる身なれば、つつしんでよく養ひて、そこなひやぶらず、天年を長くたもつべし。これ天地父母につかへ奉る孝の本也。身を失ひては、仕ふべきやうなし。わが身の内、少なる皮はだへ、髪の毛だにも、父母にうけたれば、みだりにそこなひやぶるは不孝なり。


第1節 指圧学校に入学

平成12年4月日本指圧専門学校入学。
昭和60年4月墨田区役所入庁し、図書館、区議会事務局、高齢者福祉課、障碍者福祉課を歴任したが、入庁16年目に専門学校に入学したのだ。

夜間授業であったため、17:15に業務終業後、素早く着替え、錦糸町駅から飯田橋駅に向かう。
飯田橋から坂道を登って15分、小石川に日本指圧学校がある。

授業を2コマ(1コマ90分)21:15には学校を出、上野駅から常磐線佐貫駅に帰る。
電車の中が勉強部屋。21:54上野発22:40佐貫駅着。
歩いて一人暮らしのマンションへ。帰宅は23:00。

お風呂に入り、翌朝は6:20の始発から2本目の電車に乗り込む。
座れるわけではなく、約1時間は満員電車。

車窓からは、朝靄の坂東太郎や筑波山を眺め、勉強にいそしむ。
3年生の時、小石川に引っ越して人間らしい生活を送れるかとおもいきや、定期試験・国家試験と勉強をこれほどした時期は一生で一番であった。
 

なぜ指圧学校にいったのか? よく質問される。
答えは「友達に勧められたから」。
そんな単純なことでこんな大それたことを決行してしまったのだ。(今から思えば)

区役所勤めは、小学校5年生からの、私の目標であった。
母が「将来は、区役所に勤めなさい」と言ったから。素直で従順な大野少女、目標達成のため、勉強して晴れて墨田区役所に入庁できたのだ。
最初は図書館。5年勤務し、定期異動。
「希望部署は人事にお任せ」と記入したから、誰も希望者などいない厳しい「区議会事務局」に辞令がくだった。

今から思えば、とても楽しい職場だった。定時で帰れることはなく、庶務係として、お茶くみ等に励んだ。
希望してもいけない職場であった。情報のるつぼであったし、失敗は許されない職場であるから。
ここでも、真面目で信頼の厚い大野職員は、頑張って職務を全うした。

その後、底辺の職場「福祉事務所」に移ることになる。「福祉事務所」の代表仕事が生活保護である。
幸い私は「高齢者福祉課」であったため、老人ホームに入居させる「高齢者ケースワーカー」となった。
役所の仕事は「ゆりかごから墓場まで」といわれる。ここで、戸籍から、納骨までかかわった。

26歳~30歳、18歳からの区役所務めもはや10年を越え、このままでいいのか?という天の声が聞こえ始める。
スキーやテニスを習い、そこで知り合った友人に恵まれ、海外旅行に度々行った。主に「海」。
グアム・サイパンは何度行っただろう。シュノーケルできるきれいな海を求め、沖縄座間味島や、ニューカレドニアにも行った。
友人と一緒に過ごす時間が多く、そこでたくさんのことを学んだ。

区役所で、愚痴を言っている先輩たちにうんざりしていた頃「大野さんは、こういう仕事が向いてるよ」という言葉が、私をうごかしたのだった。
 


第2節 あん摩マッサージ指圧師の免許を取得

役人は、アルバイトができない。技術を役立てられない。と考えてしまった。
今から考えれば、指圧協会で、チャリティ指圧などがあり、人の役に立つことはできたのだが、その当時の私は、考えが極端だった。

収入など考えていなかった。
誰が考えても、区役所を辞めるなど、馬鹿であった。

母親は、いまだに他言しない。親戚には「内緒」になっている。
親不孝をした。
どん底も経験した。
しかし、今では、本当によかったと思っている。
運命を受け入れ、認め、努力し、感謝して人生を送ることができているからだ。


第3章 トータルヘルスケアMIYU設立

平成17年4月  施術所開設届(指圧治療ROOM)
平成18年5月  トータルヘルスケアMIYU設立

おりしも岩盤浴ブームだったので、エステも導入し、小石川の一等地でお店を開業できた。
沢山の方のおかげだった。本当に本当にいろいろな方のおかげで、営業をしてきた。

過去のスタッフには、今でも本当に感謝している。入れ替わりはもちろん大きな出来事だった。
一時は、辞める決意もした。命を絶つことまで考えた。
しかし、そのたび、誰かが救いの手を伸ばしてくれた。
 
これはもう、私の力ではなく、運命の力だと思った。
これからの私の人生は、あきらめず、より良く生きることを全うするのだと悟った。

 


第1節 生い立ち

ある年齢から占いで物事を決めてきた。
その前は親や先生や周りの大人たちの言うとおり生きてきた。
だから自分で決めたことがなかった。失敗したくなかった。いや失敗は許されなかったからだ。

振り返ると、私が0歳のとき、母がぜんそくで入院した。
私は、父の妹の家に数か月預けられた。今、宗教の本や心理学や占いを読んで、わかったことがある。
3歳までに親の愛情を得た人は、本能で「いい人か悪い人か」などがわかるのだそうだ。

私は、「泣いても親はいなかった」のだ。捨てられたのだと幼い心は感じたのだ。
生きるために、服従するしかなかった。言うとおりしないと嫌われる、そうすると食べさせてもらえない。
だから服従する。無意識のレベルで察知するのだ。母の笑った顔をみた記憶がない。
今、自分が「なぜ決めることをできないか」がわかった。
 
わかることが、始まりだった。
自分の人生を肯定する。
認める。
そのうえで、自分自身で決定する。
決定した結果は、自分のせい。
だから失敗しないように、よく考えればよいのだ。私の未来は明るくなったのだ。
 
本能で「いい人か悪い人か」などがわからなかった頃、
信じていた人が、
「お前がいなければ生きていけない」と言った。しかし、私と別れても生きていた。
後になってわかったのだが、
つまり、「お前のお金がなければ生きていけない」と言っていたのだ。
その人は、お金をくれる別の人をみつけて問題なく生きていた。
しかも、私に復讐をすることで、生きるエネルギーを生み出していた。
その人は「自分は悪くない。相手が悪い。」といつも自分勝手な理由を言う人だった。

私は、恨んだり、悲しんだり、途方にくれたりした。
一人では解決できず、弁護士さんにいろいろ調べてもらって、後からわかったことが沢山あった。
生きていれば、多少なりともいろいろなことがある。
けれど、そこで事実と良く向き合うことが大切だ。
真正面から事実を見つめ、原因と理由と結果を考える。そして、次に生かすのだ。
私の生い立ちがそうさせていたのだから、これからは、考えて生きればよいのだとわかった。
だから、すべての人に感謝している。


第2節 自分で決められるようになってから

どん底を経験した後、運命が好転していくのを感じた。

そこからは、毎日毎日、学んだ。
毎朝、歩いた。
沢山の本を読んだ。
その中でも『四書五経一日一言』を3年ずっと読み続けた。

その本を読んでいくうち、
私のメンターは「孔子」をはじめとする偉人達だと気づいた。
時を超えて偉人たちは私を励ます。私の幹がぶれないのは、偉人たちの教えがあるからなのだ。

生きている人は、色々な現実を私に見せる。人間だからよい部分も弱い部分もみえてしまう。
そこで幻滅する自分がいた。
「あれ?あんなに素晴らしい対談が本に掲載されていたのに、実際はこんなことも言うのか。」
そこで、偶像化している自分に気づく。素晴らしい人は完璧だと思い込んだのは、勝手な私だった。
だから、過去の偉人たちの言葉が一番素晴らしいのだと。

色々な事情で、治療院に住んでいた私だが、転機が訪れた。引っ越しだ。
職住接近が良いので、
近くのマンションに引っ越した。

引っ越してから、私は朝3時半に起床し、1時間は自分の好きなことをした。
その後は、風呂に入り、床を拭き掃除する。
新しいきれいなマンションだったので、汚さないことを実行すればよいので、とても頑張れた。
洗濯物を絶対にためない。汚れたらすぐにきれいにする。使ったものは元の場所に戻す。
雑でよいので「後で」をなくしていった。

その結果、いつもきれいな自分でいられ、重くなく、動きがすぐでき、快適な生活を送ることができた。
「天知る地知る子知る吾知る」いつも誰かが見ていることを意識し後悔しない行動を心掛け実行した。
夜は21:30には寝床についた。6時間の睡眠を確保した。

そして、引っ越して約1年後、東日本大震災がおこった。
今終わっても悔いがない行動をしようと、更に毎日毎日頑張った。
また、本を本当によく読んだ。今もそれは続けている。
点が線になって私の未来を創ると気づきだしていた。
澄んだ心と頭でいると必ず良い出会いがある。



第3節 法人化、そして再開発

平成24年3月法人化(RoomMIYU合同会社)
そして再開発

お店は私の命。その命を、再開発のために差し出すことになった。

ことが動き出した初めのころ、不安だらけだった。どうなってしまうのだろうと思った。
しかし「いや違う、どうするのか」なのだ、と気づいた。
部外者は「よかったじゃない」とか「大変ね」とか他人事なのだ。
逆に言うと自分のかわりにはなれないということなのだ。
だから、逆に自分自身のことなのに「客観的に」考えた。

自分を遠くから観たのだ。
そして、結論「再開発で皆に良いものができるのなら、喜んで自分の命を差し出そう」と結論がでた。
そして、私の人生の体力を考えて、「お店」という形態をとって仕事するのは、あと20年と目標を設定した。

一人でもできるくらいの規模にして、経常経費は出来るだけ安くなるよう、半分の面積の今の場所と縁を結べた。
不動産は縁だとよく言う。
「ここが良い」と思ったら、すぐ行動しないと、あっという間に縁はなくなってしまうものである。

有難いことに、目と鼻の先に、現在の場所が空いていた。
情報を集め、良く考え「ここしかない」という結論に至り、そこからは、電光石火のごとく動いた。
出来うる限りのエネルギーを注いだ。人知れず。


第4節 吉方位旅行との出会い

再開発話が再浮上した1年位前から、「吉方位旅行」をし始めた。
本のとおり、素直に行動してみた。西の方位が空いたとき、米子や出雲に出かけた。
本によると、行った月から象意による変化があるとのこと。

すると、本当に赤字から脱出したのだった。
吉方位旅行に行ったのは、もう一つ理由があった。今まで努力してきた。
そろそろ運も味方にしても良いのではないかと思ったからだ。
素直に方位学という学問を実践した。今でも旅行は続けている。

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